井伏鱒二「黒い雨」を読んだ。
原爆の凄惨さを伝えるというよりは、事実を淡々と描写していく。被害者を過度に美談に仕上げず、事実をフラットに、中立的に描写している。というのも、もともと日記を書いた作品があり、それをもとに構成されている。
しかし、事実を淡々と描写しているからこそ、結果的に、そこに現れる市井の人々たちの、静かな、誠実な美しさが際立つような描写となっている。被害に遭いながらも、必死に生きる登場人物たちのことを思うと、感嘆の気持ちにならざるを得ない。
原爆で思い出すのは、小学生の時に行った、原爆ドームの展示である。当時の私にとって、爆風を受け、放射能を浴び、いくら模型とはいえ、皮膚がケロイド状に溶けている様を見るのは、非常に恐ろしいものであった。
おそらくは戦争の悲惨さを伝えるために、そのようにあえてグロテスクな描写をしていたのだろうとは思う。それは、幼い私に、悲惨さ、恐怖心、そして二度と戦争を起こしてはならないという気持ちにさせるには、十分であった。そういうことも、この作品を読んで思い出していた。
今この作品を読んで思うのは、彼らと私たちの違いはなんだろうか、なぜ彼らは死に、私は生きているのだろうか? ということである。
死と隣り合わせ、とか、死の反対が生、とも言われるが、たまたま死という形態を取っていないだけで、死はすぐ身近にある。しかしそれは、私にとっては、普段意識することは限りなく少なくなっている要素である。
だが、最近であれば自然災害であるし、現在でも各地で戦争や紛争、対立や疫病が続いている。そういった時代において、私が生きていることは、本当にたまたま、偶然の結果である。
もしかしたら、次の瞬間、交通事故に遭うかもしれない。自分自身がここまで生をつないできたことは、本当に幸いだと思う。そして、私の身近な人たちが生きていることも、偶然であり、幸福なことである。
陳腐な言葉になってしまうが、そうやって今まで生き永らえていることに、感謝せねばならない、とは思う。
しかしながら、私は今、生きているのが当然だと思ってしまっている。そんな中で、彼らとはくらべものにならないものの、様々な悩み、苦しみがある。それは、今の私にしか感じえないことである。
他者と悲惨さや辛さの多少を比較するのは、間違いではあるのだろう。それでも、私が現在感じている感情は、今の私にしか持ちえないものなのだ。それを否定するのならば、同時に他者の感情も否定しなければならない。
自分も隣人も同列に扱いたいのならば、私の感情を肯定するとともに、他者の感情も同様に肯定しなければならないのだ。