人が人の役割を脱ぐとき

ハロウィーンにおけるコスプレ

街ではハロウィーンの喧騒がかしましい。ハロウィーンイベントもここ数年でしっかり定着したようだ。その経済効果は1400億円にも上り、いまやクリスマスに次ぐほどの市場規模になるそうだ。ハロウィーンの騒々しい雰囲気は賛否両論あるが、秋の夜長、少し物寂しい印象のあるこの時期を楽しく過ごそうという人たちの思いは良いものだ。

そもそもハロウィーンの起源は、古代ケルト人の風習の一つで、死者が現世で迷わずあの世へ行けるようにとの願いを込めて、仮装して案内する風習から来ている。子どもたちは「トリック・オア・トリート(お菓子をくれないといたずらするぞ)」と言いながら家屋を廻り、家の人々からお菓子をもらうのだ。

そんなハロウィーンの目玉といえば日本ではやはりコスプレだろう。ドラキュラや囚人、気合の入った人はゾンビのメイクを施し、イベントを盛り上げている。

さて、コスプレとはいうが、実際にゾンビや囚人たちの衣装を着ることだけがコスプレなのだろうか。

例えば私は仕事に行く際にはスーツを着て「会社員」、普段着に着替えて「男性」という役割を得るために見た目を変え、自分の意識を切り替えているように感じる。これが他の職業では「作業服」「看護服」「ショップの制服」などだったりするだけで、みんな本来の自分を見せるときはあるのだろうか。

私は、他者から「会社員」という役割を与えられるためにそうやって「スーツ」を着ることで一種のコスプレをし、自己がこんなに社会性のある人間なのだ、ということを主張しているような気がしてならないのだ。

そんな私だが、ハロウィーン当日は折からの体調不良が重なり、会社の同僚いわく、ヨロヨロと歩くその姿は図らずもまるで生ける屍――ゾンビ――のようであったという。