【書評】きまぐれ星からの伝言

エッセイII : SFと寓話

「どういう意図であの作品を書いたのですか」と著者に質問する人がたまにいる。「それは作品を通じてご理解下さい」と答える作家が大部分であろうし、それが正しいのである。各人各様に受けとめられるからこそ、寓話なのである。
(中略)
「かもめのジョナサン」という作品が多くの人に読まれた。この価値はどこにあるのか。各人各様に感想をいだけるところにあるのだ。かりに作者がインタビューに答え「この意味はですね」と明快な解説をやったとしたら、その寓話としての価値はたちまち下落してしまうだろう。また、作者としても、解説しようにも執筆の意図はなにもなかったはずである。ただ、ひたすら自己の満足できるストーリーを作りあげるということ以外には。

P.112 初刊『きまぐれ暦』1975年12月


エッセイII : SFの視点

名作と称されるSFには、問いかけ、あるいはそれを誘発するものが含まれている。
(中略)
すでに大問題になっているのは、もはや大問題ではないのだ。対象もさることながら、忘れてならないのは問いかけるという姿勢なのである。
(中略)
現代は情報の氾濫時代だそうだが、われわれはいっこうにアップアップという気分にならない。情報は大量なのだろうが、処理され規格化されているからである。どこかでクーデターが起ったとする。わかったような気分にさせる解説がつき、新聞は「事態はなお流動的」と書き、テレビニュースは「成り行きが注目されます」で、多くの人びとは「よくあることか」とつぶやき、ちっとも驚かぬ。規格化の情報が、規格化された思考回路を通り抜けて行くだけ。(後略)

P.126 初刊『きまぐれ博物誌』1971年1月 (文中強調表示は当方による)

発行年度を見ていただきたい。1971年、つまり2016年の今から実に50年近く前に書かれたエッセイなのだ。どうだろう、今見てもなんの違和感も感じないのではないだろうか。「クーデター」を「テロ」と置き換えてもらっても良い。特に「現代は情報の氾濫時代だそうだ」とあるが、現在でも言われていることであり、彼の先見性の高さがなせるが故なのか、当時から状況は実は大きく変わっていないのか。

しかも、多くの人びとは「よくあることか」とつぶやき、なのだ。もちろんこれは比喩表現なのだが、「つぶやき」と聞いて思い当たるものはないだろうか。そう、Twitterだ。この表現から連想するのは強引ではあるか。ただ、私たちは昔の人たちが思い描いていたSFのような世界をまさに生きているといえるのかもしれない。

また、「情報は大量なのだろうが、処理され規格化されている」というのも、現代にも当てはまる。大量の情報がやってくるが、それはうまくメディア(新聞・テレビ・ニュースアプリなど)で処理され、規格化されて分類分けされている。よって、われわれの間に届くときは―パーソナライズされた広告のように―必要な情報が、必要なだけ手に入るようになっている。

少し文章をさかのぼってみよう。「忘れてならないのは問いかけるという姿勢」と書いている。つまり、どんな情報でも、規格化されてつまみやすくなっていたとしても、問いかけるという姿勢―発信元はなんなのか、信頼できる機関であるのか、情報源は正しいのか―ということを留意しなければならないのではないだろうか。現代はまさにウェブでもありとあらゆる情報が流れてやってくる。自戒の意味を込めて、正しい情報を必要な量だけ取捨選択できるようになっていきたい。

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